メディアの問題点 - 日本を貶(おとし)めるメディアたち2 -
前回、朝日新聞が「慰安婦問題」を捏造(誤報)したとお伝えしました。
今回はその「慰安婦問題」の経緯を書こうと思ったのですが、いざ文章にしてみようと思うと、「あれ?この記憶は合ってるのかな?」とか、考えてしまってその都度調べたりしてました。
なんとなくの流れは覚えていても、いざ人に説明する文章を書くとなると難しいですね。
では今回は「慰安婦問題の歴史」について、まとめてみようと思います。
この問題を理解するには、やはり朝鮮半島の歴史から説明しないといけないのでは?と思うので、調べてみました。
すごく長くなりそうです。
まずは、どの辺りから開始するのが良いか迷いましたが、日本が明治時代になってからくらいから追っていく必要がありそうなので、その辺から書いてみましょう。
日本が明治時代だったころ、朝鮮半島では「李(り)」氏という家柄の人が統治していて、「李氏朝鮮(りしちょうせん)」と呼ばれていました。
そして、その頃の李氏朝鮮は中国(当時は清)の属国(ぞっこく:子分みたいな国)だったため、 中国から重税を掛けられていたようです。
そんな中、1884年に李氏朝鮮の中には親中派(中国に頼る)と、独立派(中国に頼らない)が居たとされており、独立派が日本に援助を求め親中派を追い出そうとしたけど、親中派は中国に援助を求めて、追い出しは失敗したという事件(甲申(こうしん)政変)があったと言われています。
この事件で日本と中国が朝鮮半島で戦争になりそうだったので、「天津条約(てんしんじょうやく)」と呼ばれる条約を結び、「今後、お互い朝鮮半島に軍を派遣する時は、お互いに連絡して、同時に軍を派遣しましょうね!」と約束しました。
しかし、相変わらず李氏朝鮮は中国からの重税に苦しんでいました。
1894年、ついにその重税に耐えられなくなってきた李氏朝鮮の民衆は反乱を起こしました。
その反乱を治(おさ)めるために、李氏朝鮮政府は中国に協力を求め、中国は軍を朝鮮半島に派遣することにしました。
それを見て、日本も天津条約に従って、朝鮮半島に軍を派遣します。
そして、民衆の反乱を治めますが、日本、中国ともに朝鮮半島から撤退しようとせず、両者にらみ合いが始まり、そのまま戦争へと突入して行ったのでした。
これが「香港デモ」の説明にも出てきた、「日清戦争」です。
この日清戦争に勝利した日本は、下関(しものせき)条約を中国と結び、中国に朝鮮を独立国と認めさせ、属国という立場から解放しました。
ちなみに、この時に台湾は日本に割譲(かつじょう:分割して渡す)され、ここから1945年の終戦まで台湾は日本の一部となりました。
属国から解放された李氏朝鮮は、独立国となったからには国名を変えようということで、日清戦争から2年後の1897年、「大韓帝国」と名乗るようになりました。
そんな独立したばかりの「大韓帝国」に、ロシアが凍らない港を欲しがって、徐々に南に侵略をし始めてきました。
それを脅威に感じた日本はロシアの進出を食い止めようとして、1904年、日露戦争が起こります。
そこで、大韓帝国は日本とロシアを比べて、ロシアの方が強いと考え、日本が中国から独立させてあげたにも関わらず、ロシア側に付こうとしたようです。
なので、日本は大韓帝国がロシアに付いてしまうと、日本が危険になるため、大韓帝国と「第一次日韓協約」を結び、外交と財政に関与することを認めさせました。
翌年(1905年)、日本がロシアに勝利して、大韓帝国の指導、保護を行う権利をロシアに認めさせました。
それと同時に、日本は大韓帝国と「第二次日韓協約」を結び、外交は完全に日本が取り仕切ることを認めさせ、韓国統監府(とうかんふ)を設置し、初代統監に伊藤博文(いとうひろぶみ)が就任し、他国になびかないようにしました。
それを不満に思った大韓帝国政府は1907年、オランダのハーグというところで、万国平和会議というのが行われていたのですが、そこで「日本は大韓帝国の外交権を取り上げた酷い国だ!」と告げ口して回りました(ハーグ密使(みっし)事件)。
しかし、各国の反応は「だって日韓協約を結んだってことは、日本に外交を任せることをOKしたってことじゃん!うちら関係ないよね?」と相手にされなかったようです。
これを知った日本は「ダメだ。大韓帝国はずっと中国の属国であったため、独立国としてのあるべき姿を理解出来ていない。もっと管理を強化しなくては!」となり、「第三次日韓協約」を結ぶことにしました。
これは大韓帝国の内政(ないせい:国内の政治)も日本が取り仕切るというものでした。
こうして日本の中では「大韓帝国をこのまま野放しにしていたら、今度はロシアの属国とかになってしまうのではないか?併合(へいごう:) して、完全に日本の管理下に置くべきではないか?」との声も大きくなっていったようです。
この併合派の中心人物が山縣有朋(やまがたありとも)でした。
しかし、初代統監の伊藤博文は併合には反対であり、あくまで大韓帝国が自力で独立するべきであり、日本はその独立を援助すると考えていたようです。
なので、伊藤博文は併合反対派だったのです。
ところが、この伊藤博文の考えは大韓帝国に伝わっておらず、民衆は日本に支配されていると感じていたようです。
その民衆の中で、特に併合反対派だった安重根(あんじゅうこんorあんじゅんぐん)という男がいました。
伊藤博文が併合反対派だとは知らない安重根は、大韓帝国の独立のために1909年に、ハルビン駅で伊藤博文を暗殺してしまいます。
皮肉なことに併合反対派だった伊藤博文を暗殺したことで、山縣有朋らの併合賛成派の意見が強くなり、翌年(1910年)に日本は大韓帝国を併合し、統治(とうち)することになりました(朝鮮併合)。
ここで、良く誤解される、いや、むしろメディアや教科書は日本を貶(おとし)めるためにわざと書いていると自分は思っているのですが、この朝鮮併合、または日韓併合、韓国併合とも呼ばれていますが、この併合のことを「日本が朝鮮半島を植民地化した」と記載していることが多いです。
そこで、日本が嫌いな人たちは「植民地」という言葉が持っているイメージを利用します。
朝鮮半島を日本の統治下に置くという意味では、「植民地」と言っても言葉としては間違いではないのだと思います。
しかし、日本が行った植民地化(併合)と、海外(主にイギリスとか)が行っていた植民地化ではその内容はまったく違うのです。
この「植民地」という言葉のイメージの違いを利用して、言葉の意味としては間違っていないけど、外国人に日本が行った朝鮮併合は「植民地」だとイメージを与えることで、悪い印象を与えることに成功してしまいます。
つまり、海外で「植民地」というと、その植民地化した国の人を奴隷のように扱い、その国の利益をどんどん奪い取るというイメージが、海外での「植民地」のイメージなのです。
しかし、日本の植民地(併合)はまったく別のものです。
日本は朝鮮半島を日本の一部として、日本の本土と同じくらいに発展させようとしました。
なので、日本は朝鮮併合後、莫大な税金を投入して、社会基盤を整えていきました。
日本が行った主なことを以下にまとめました。
- 小学校の数を約40校から4271校に増やしました。
- 師範学校を作り、教員を育てました。
- ハングル文字を標準化して普及させ、識字率(文字が読める人)を10%から60%に上げました。
- 焼畑農業で木が無くなっていたので、6億本の植林を行いました。
- 治水工事を行い、1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設を行いました。
- 土地の開墾を行い、耕地面積が2倍になりました。
- 朝鮮半島全域に鉄道を敷きました。
- 発電所を作り、送電線を巡らせ、各地の村々に電気を通しました。
- こうしてあらゆるインフラを整えた結果、人口が約1,300万人から2,550万人以上に増えました。
- 衛生管理を徹底し、病院を作り、平均寿命が24歳だったのを、42歳まで伸ばしました。
これだけ日本の統治によって発展したのだから、いかに海外の「植民地」とは違うものなのかが分かるかと思います。
併合前のソウルの画像と、併合後のソウルの画像がありますので、ご紹介しておきます。
【併合前】
【併合後】
このように併合後は近代化されてきていることがわかるかと思います。
これが海外がイメージしている植民地(搾取(さくしゅ:奪いとること))と同じでしょうか?
今まで教わってきた教科書の内容などに、疑問をもっていただけたでしょうか?
今までの情報が正しくない可能性もあると、疑いを持ってください。
まずは、疑うことが第一歩だと思います。
さて、まだまだ歴史はつづくのですが、さすがに長くなってきてしまったので、一旦ここまでで今回はやめておきます。
今後、世界大戦の歴史になって行きますが、この辺複雑すぎて、自分でもまだ調べ切れていません。
また色々調べたりするので、次回の投稿も遅くなるかも知れません。