世界の見方ーエピソード0
2003/08/31
私の世界を揺らすもの
えーと、今回は今までとは違い、音楽のお話ではありません。
あら…(A゜∇゜)
本当は音楽の話がある程度書けるようになって、
私に理解力、文章力などが付くまで、こういったお話は避けておこうと思ってました。
だってこういう話題は嫌がられるんだもん☆←かわいい感じにしても駄目です!
でも最近、なんか早く書かなければいけない気がしてきたので、
まだ早いとは思ったのですが、「るつぼ」の最終目的に突入していこうと思います。
今後は音楽の話と平行してやっていこうと思います。
ただでさえ更新率が悪いのに、すごく無茶な気がしますが、長い目(*゜‐゜)で行きたいと思うのでよろしくお願いします
では今回は私が「衝撃を受けたこと」について書いてみたいと思います。
文章の構成がめちゃくちゃで読みにくいかも知れませんが、お暇な方は読んでみてくださいm(__)m
みなさん、よくTVや学校等で、「科学的に証明された」とかいう言葉を耳にしたことがありませんか?
この言葉、結構聞くことがあるかと思います。(私だけか?)
そこで、この言葉を聞いたみなさんはどう思われるでしょうか?
「なるほど、ならばそれは正しいことだ」と思われるでしょうか?
私も中学、高校のころは、そう言われると「それは絶対に正しいものだ」と思っていました。
私は昔から「未知のもの」に興味を持っていました。
例えば、「何でお空は青いの?」という疑問から、
「宇宙の果てには何があるの?」とか「物を小さくしていくとどうなるの?」とか
そういう科学的なものに興味を持ち、さらには「人は死んだ後どうなるの?」とか
「なんで人は恐怖を感じるの?」また「自分は何で生きているの?」「幸せって何?」
といった哲学や、超心理学(でいいのかな?)にまで興味を持つようになってしまいました。
えっ!?変ですか?…そうですか、変ですか…でもいいんです。分かってますから(T▽T)
そして私は、科学というのは人の感情や、意識とは関係なく切り離されていて
「ただそこにある事実(現象)」を研究するものだと思っていました。
つまり、科学とは「真実を探求していく」ものだと思っていました。(おっ!なんかかっこ良くない?)
あ、ちなみにこんなこと書いてますが、私は文系です。自信はありませんが(^^;
暗記が嫌いです。暗記面白くなーい!
っと、こんな話は置いておいて、
しかしですね。
あれは確か高校の2年か3年の頃だったと思うのですが、そのころ私は
「物は何から出来ているのか?」ということに興味を持っていまして、
そんな感じの本などを探していました。
でも大体そういう関係の本は数式だとか、難しい専門用語だとかばかりで、さっぱりわかりません。(T□T)
なんでもっと初心者というか私のようなオッペケペーな人に分かるように書かないんだ!って思っていたのですが←それはね、別にお前のために書いている訳じゃないからだよ。
そこで「図解雑学 量子力学」という本に出会いました。
この「図解雑学」シリーズは豊富な絵となるべく分かりやすい文章で書かれていて(それでも良く分からないのですが)
気に入った私はこの本を読むことにしました。(スポンサー料は貰ってないよ☆)</o)(o>
で、まー結論を簡単に言ってしまえば、
「物は小さな粒が寄り集まって出来ている」
ということになるそうです。(最近はまた違うみたいですが…)
それはもう、目には見えないくらいの小さい粒だそうです。
この粒が寄せ集まって、私達の世界は創られているそうです。
さらには私達の体もこの粒が集まって出来ているようです。
フ~ン(゜~゜)
これはなんとなく想像できますよね!?
ここで、日ごろ私達がどうやって物を見ているかを考えて見ましょう!
えー、みなさん、ここからは想像してみてください。(あ、なんか先生っぽくない?)
例えば、学校の校庭にサッカーボールが転がっているとします。
なぜ、私達はそこにサッカーボールがあると分かるかというと、
まずは、太陽から沢山の「小さな光の粒(正確には少し違いますが、粒としておいてください)」が降って来ます。
そしてその粒がサッカーボールに当たります。
そのサッカーボールに当たって、跳ね返ってきた粒が私達の目にぶつかります(うゎ!なんか痛そう(*ノノ))
そして、その刺激を目の細胞が受け取り、脳に「光の粒がぶつかったよ!」
という信号を送ることで、私達はそこに物があると意識することが出来ると言われています(今の所)。
えっと、すごく大雑把ですが、ここまでは何とか想像できますでしょうか?(まーそのくらいなら…)
で、その時に風が吹いているとか、地面が斜めになっていない限り、
サッカーボールが動くことはないですよね?(でも、空気が抜けたら動くよね!?←うるさい!)
それは光の粒より、サッカーボールの方がもの凄く大きいから
光の粒がサッカーボールに当たっても、その当たった勢いで
サッカーボールが転がることは無いですよね?
例えば、サッカーボールの上から砂の粒を少し落としてみても、
サッカーボールが動かないのと同じだと思います。(そうかぁ?)
光の粒は砂よりさらに小さいので、動かないことが想像できるんじゃ無いでしょうか?
では今度は、もの凄く小さい物の世界ではどうなってしまうでしょうか?
先ほど物は小さな粒が寄り集まって出来ているって言いましたが、
じゃーその小さな粒を1粒だけ観測したいと思います。
その1粒は、光の粒1粒とほぼ同じ大きさだとしますね。(正確な話は抜きにしてください)
するとどうなるでしょうか!?(もったいつけんな!)
まるでビリヤードの玉同士がぶつかり合うかのように、光の粒がぶつかった瞬間に
その観測した粒は何処かに弾き飛ばされてしまいます。
そして、光の粒が私達の目にぶつかって、私達の脳が「おっ!粒を発見♪」と意識した時には
もうすでにその観測したかった粒はそこには無いんです!
なんと!私達が観測するという行為が、観測した物に影響を与えてしまってます!
なんじゃそりゃ!?って話になりませんか?
私の感覚としては、例えばサッカーボールを校庭に置けば、自分がサッカーボールを見ようと、見まいとサッカーボールがそこにあることは変わらないはずです。
だけど、この世の元となっているはずの粒を観測しようとすると、その正確な位置は「大体この辺かな?」と「確率でしかわからない」ってことに なります。
これは結構ショックな事実でした。
だって普段の生活で私達が「見る」という行為が物に影響することって無いような気がするじゃないですか!?(私だけ?)
例えばですよ?
学校の屋上から友達がサッカーボール(またサッカーボールかよ!どれだけ好きなんだよ!)を落としたとするじゃないですか!?
で、その落ちてきたサッカーボールを私が見た瞬間にボールが落ちる軌道を変えてしまうってことじゃないですか?(超能力!?)
そんなバカな話はないと思っていたのですが、良く考えると確かに小さい物同士だとそういうことになるなーと思います。(゜ー゜;A
結局の所、どんなに科学が発達しても、正確な粒の位置というのは「私達が人間で、観測することで調べている限り分からない」ということになってしまうじゃないですか!
ここで「科学というのは人の感情や、意識とは関係なく切り離されている」と思っていた私の考えは根本から崩されてしまいました(T▽T)
全然人の意識と切り離されてないです!
むしろ、「切っても切れない関係」です。(・_・ヾペペーン マイッタネー
わぉ!なんてこったい!ショック☆<( ̄□ ̄;)>☆
で、ですね、ここでちょっと視点を変えてみて、逆から考えてみると
「私達が観測したから、物事は決定される」
とも言えると思いませんか?
うわー、なんか変な感じがする…(゜O゜;
さっきのサッカーボールも自分がサッカーボールを意識したから、そこにあることが分かる訳で、
もしかしたら後ろを向いている時はそこにサッカーボールは無いかもしれないってことじゃないですか!?
えー!ありえなーい☆(女子高生風に)
…(ーー;)
ごほん( ´o`)=3。まー私もありえないと思うのですが、「無い」とは言えないんです。
だって意識できないから…
ほら!今、あなたの後ろは何も無い世界なのかも知れませんよ!?
んー!ふっしぎ♪ふっしぎ♪不思議ちゃん!←お前が不思議だよ…
続けます。
で、このことを真剣に考えているシュレディンガーっていう科学者のおっさん(うぅ、ごめなさい)がある問題を出したそうです。
えぇ、この問題が科学者達の間で未だに解けない問題だそうです。
では、ここでも考えて見ちゃいます!
まずは、猫を用意してください。(あ、実際に用意しなくていいですからね。下手すると猫が死にますので(^_^;))
種類はなんでもいいです。
じゃー、黒猫でいいです。(他意はありません)
次に猫を入れる中身の見えない箱を用意してください。(だから想像でですよ!?)
その箱に「1時間の内に50%の確率で毒ガスを発生させる装置」を入れてください(ちょっと意味合いが違うかも知れないです)
そんな装置知らねーよ!
いや、無理やり頭の中で作ってください。
その箱に黒猫を入れてください。
箱にフタをしたら、1時間待ちましょう!
………
はい!1時間経ちました!←早っ!
では、問題です。
箱のフタを開けない状態では、猫は生きてるでしょうか?死んでるでしょうか?
チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、デデデデン♪
さあ!答えは?
そんなの見なきゃ分からないよ!
はい!今、いい事言った!
そう!「見ないと分からない」んです。
いや、そんな当たり前のこと言われても…(・_・;
まあ、まあ、とにかく、これがどんなに偉いと言われている学者や、博識といわれる人でも、その人が「目」によって調べる限り、猫は生きているのか、死んでいるのかは箱を開けて見るまで分からない訳です。
だから、この問題は私達が「人間」である限り答えは出せないのです。
人間の限界という訳だね!d(^-^)
この問題は「シュレディンガーの猫」という問題として有名なお話だそうなので、興味を持たれた方は調べてみるのも面白いと思います。 (^^)
この問題から言えることは、物事はすべて「確率」でしかわからなくて、自分が物事を「意識」した時点でそれは事実となるということじゃないでしょうか?
結局どんなに客観的に物事を見ようとしても「本当の意味での客観的」というのは誰にも出来ないんだと思います。
どんなに他人の視点で見ようとしても、他人にはなれないってことだね!(*^^)
つまり、すべての物事は誰かしらの主観(誰かが意識した事実)で出来ているんじゃないでしょうか?
例えば学校で習ってきた歴史にしても、「誰か」がその時代に意識し、記録などに残しているだけで、私達が覚えさせられているのは「誰かが意識した断片的な歴史」でしかないのかも知れません。
前に、旧石器ねつ造事件ということがあったけど、この事件も発見した人の自作自演だと気が付かなければ、それが真実だとして私達は教え込まれる訳です。
歴史って何?(-_-;)
また、「地球は太陽の周りを回っている」ということも、誰かが観測をして意識したから知ることができます。
だけどそれも「知っている」だけであって、決して自分で実際に確かめたわけではありません。
昔は「太陽が地球の周りを回っている」というのが、真実だったわけです。(今の時代で言うとかわいそうな目で見られますのでご注意を(^^;))
だから例え科学的に証明されたとしても
「それが真実だとは限らない」
ということになるんではないでしょうか?
きっと科学も宗教の一つでしかないと思います。m(゜- ゜ )カミサマ!
まー、そんなこと言っても、科学的に証明されると納得してしまうんですけどね!(^^;
つまり、この世の中には
「真実なんてものは誰にも分からない」
と言えるんじゃないかと思います。
その考えに行き着いたとき、私の信じていた世界が揺れました!Σ(゜口゜;
私は今まで何を教わって来たのか分からなくなりました。
何が正しくて、何を信じていけばいいのか分からなくなりました。
私は霧の掛かった世界に迷い込んでしまいました。(゜-゜*;)オロオロ(;*゜-゜)
そして、何も信じられなくなった私は
「どうせ真実は誰にも分からないのだから、自分も分からなくていいや!」
と、それ以上考えるのを止めました。
結局私達は、自分が今まで生きてきた中で「意識」してきた事実は一人一人違う訳です。
そうすると、やっぱり一人一人色々な考え方や、価値観が出来て、人と人が分かり合えることなんて、ほんの少しなんじゃないでしょうか?
決して全てを分かり合える人というのは例え親子だとしても、いないと思いました。(孤独だなー(T▽T))
そして「どうせ私の考えはほとんど分かってもらえないなら…」と、自分の考えを外に出すのを止めてしまいました。
だってあまり聞く耳を持ってもらえないし、こういう話はあまり面白いものではないので…
特に私は普段「ボケキャラ」として過ごしているので、そんな私がこんな話をしても面白くないな!ってな訳で、あまり話しませんでした。( ̄- ̄)
そして、何より説明するのが面倒臭いから…←最悪です。
それに、私は人にとやかく言えるほど、自分に自信も無いので…(^^;
だって、何が正しいのか分からないし…
でも最近、さらに考えが進みました。
それは「真実は誰にも分からない」のではなく「真実というのは一人一人の意識ごとに違うもの」であり、それぞれ「すべてが真実」であると言えること。
だから、自分に真実があるからといって、他人の真実を否定することは出来ないということ。
だってそれは「あなたから見た真実なだけ」だから…
あなたの真実と私の真実は必ずしも同じではないということ。
この「違い」を意識しておかないと、人と人とのコミュニケーションは上手くいかないのではないかと思います。d(^-^)
そして、私達は「自分なりの真実」を探していかなくてはならないのではないか?
と、こう思えたとき、霧の掛かっていた視界が一気に開けていく感覚に陥りました。(´ー`)y-~~
そして例え人と解り合えなくてもそこで
「どうせ解らないから…」
と諦めてしまうのではなく、他人との違いを意識しつつも
「解ろうとする」
ことが大切なのではないかと思うようになって来ました(゜ー゜)(。_。)
私達は一人一人育った環境や経験、性格等によって、価値観や、考え方が違います。
だから、私達は例え他人が自分と違う考え方をしているからといって、その人をバカにしたり、否定したりするのではなく
「一人一人がお互いの真実を理解しあって行く」
ことで、みんなが楽しく生きていけるのではないでしょうか?ヾ( ~▽~)ツ
恐らく、私はこれこそが、本当の平等なんじゃないかと思いました。
今の平等の解釈は間違っているような気がしてなりません。
みんなが同じことをするのが平等ではないと思います。
でもこうやって言うと、何でもかんでも人と違うことをすればいいと思われても困ります。(-_-;
そういうことではなく、みんなが楽しく生きていくために、常識などに囚われず、常に最善の方法を探して行くと言うことだと思います。
例えば、私は学校では1+1=2であると教えられました。
しかし、本当に1+1=2なんでしょうか?
例えばりんごが2つあります。(・_・ ) ( ・_・) ドコドコ
その2つのりんご同士をぶつけ合わせます。どーん☆
すると、りんごはバラバラになって、10にも20にも別れてしまいます。
この場合1+1=10でもあるということになります。(屁理屈だ!)
今度は、2つのりんごをミキサーにかけます。
すると1杯のりんごジュースが出来ます。
この場合1+1=1といえるんじゃないでしょうか?(いや、屁理屈だよ!)
つまり1+1=2ということを覚えるのが大切なのではなく、物事を
「色々な視点で見る」
ことが大切なんじゃないでしょうか?(*^^)
例えば、こうやって長々と書いているのも「何いい人ぶってんだよ!」とか、「そういう自分がこの考え方を押し付けているんじゃないの?」とかね…(゜ー゜;A
まー言い出したら切りがないので
一番みんなが楽しく暮らせる見方をしよう!ヽ(‘ ∇‘ )ノ
ってまとめでいいですかね?
って、まー今までもっともらしいことを言ってきたわけですが、私自身がこれを実践出来ている訳ではないです(^^;
だから、こうやって書くのは恥ずかしいのですが、それでも「何かが少しでも変わるといいな!(自分を含めて)」と思い今回このような奇麗事を言ってみました。
世の中こんなにうまくいかないとも思っていますが、少しでも毎日を楽しく過ごせればと思います。m(__)m